月刊『致知』会長インタビュー 2001年3月号


月刊『致知』2001年3月号55頁~57頁(致知出版社刊)より転載許可の許諾を得ています。
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●特集●丹精を込める


福岡県吉井町で健康寝具製造を営む梯禮一郎さんの八十年の綿人生は、幼少期にそのスタートを切る。
数々の健康寝具を生み出し、いまでこそ「綿は神様からの最高の贈り物」と笑う梯さんだが、今日にいたるまでには貧困、火災、倒産の危機、病気とさまざまな試練を乗り越えてきた。
八十代半ばを迎えたいまなお新製品開発への強い意気込みを見せる梯さん。
まさに綿一筋に丹精を込めてきた人の歩みを聞く。


『綿一筋に歩んだ八十年』


龍宮会長相談役 梯禮一郎


かけはし・れいいちろう 大正5年福岡県生まれ。幼少期から家業の製綿業の手伝いを始め、旧制中学中退後、本格的に家業に従事。終戦後は特殊紡績業を創業。昭和32年には龍宮わた株式会社を設立し、代表取締役に就任。47年に社名を現在の龍宮株式会社に変更。平成4年に退任して会長になり、現在は会長相談役。自ら開発した健康寝具による「龍宮式健康法」を提唱している。著書に『綿にかけた男』、『はだか快眠健康法』など。


<貧しい少年時代>
 私が、福岡県南部の田主丸(たぬしまる)という静かな田舎町で、製綿業を営む父の手伝いを通して綿とのかかわりを持つようになったのは、幼少の頃ですから、もうかれこれ八十年近くの年月が経過したことになります。戦前、戦中、戦後という激動の時代を、綿一筋に歩むことができたのは、なぜか綿の持つ不思議で、素晴らしい力に魅せられたからにほかなりません。人間の生命力を引き出す綿、その綿による健康寝具の開発、私自身の二十を超える持病の治癒体験、これらを通して、いまでは、綿こそは神が人間に与えられた最高の贈り物である、と確信を抱くまでになりました。

 私が産声を上げた大正五年当時は、原綿を仕入れて綿にする、あるいは古綿を打ち直すといった仕事が中心でした。やがて、二度にわたる工場火災で経営は火の車となり、父は借金に借金を重ね、苦労は並大抵ではなかったようです。まだ幼い私が家業の手伝いをするようになったのもそのためです。

 最初は工場のなかの綿を運んだり、弟の面倒をみたりしていたのですが、七、八歳になった頃からお使いを頼まれるようになりました。当時は、いまのような子供用の自転車などありませんから、車輪が二十九インチもある大入用の自転車に乗っては転び、転んでは起き上がって何とか一年がかりで乗れるようになりました。配達の初仕事は、村から十キロほど離れた甘木町に三袋の綿を届けることでした。三袋といっても、一つの大きさは長さ八十センチもあり、合わせるとかなりの重量です。田舎のデコボコ道をどうにか倒れずに走り、配達の途中立ち寄った茶店で、同行していた店員さんがご馳走してくれた、饅頭(まんじゅう)の味はいまだに覚えています。

 小学校五年生ともなると、配達の仕事を手伝うかたわら、綿についていろいろと勉強するようになりました。幼いながらも、この頃から長男の自分はいつか家業を継ぐという意識が芽生えていたのでしょう。脱脂綿工場を営んでいた叔父から「脱脂綿ほど清潔で体に害のないものはない」と聞かされ、どうすればそんな綿を合理的に作ることができるか、どんなものに利用できるかなど、真剣に考えていました。

 父に「布団用の綿に脱脂綿を使ったらどうか」と進言し、「脱脂綿は水を余計吸うので布団はボテボテになる」と一蹴(いっしゅう)されたこともありました。当然の答えです。しかし、脱脂綿は体にいいという考えは後年まで消えずに残り、六十年を経て「パシーマ」という、脱脂綿を最新の繊維とハイテク加工した、洗える布団として開花したのです。



<父親との対立で二度の家出>
 あとに五人の弟と妹がいて、無理とあきらめていた浮羽中学への進学も、叔母の熱心な勧めでかない、勉強と配達を両立させる毎日が続きました。しかし結局は二年後、やはり家庭的な事情で、中途退学を余儀なくされました。断腸の思いでした。ただ、向学心だけは抑えがたいものがありました。小学校の担任の先生から「個性を生かし、人格を完成せよ」と教わり、中学に進学してからは仏教の書や、聖書などを読むようになり、悩みや夢、希望をしたためた「人生の勉強手帳」というものをつけるようになっていました。ですから、十六歳で綿工場を本格的に手伝うようになってからも「本だけは読ませてほしい」というのが唯一の希望で、帳簿に本代と記しさえすれば、買って読むことを父に許してもらいました。

 ところで、昭和初期の綿屋の仕事といえば、中国から輸入された原料を買い、それを細かく砕いて綿にし、得意先の呉服屋や布団屋に届ける、といったものです。小さな綿屋がひしめき合うなか、いまのままでは将来の見通しが立たない、と感じた私は新たな生産システムの導入など、父に投げ掛けてはみましたが、耳を貸してはくれません。我慢できなくなり、とうとう思い切って家を出る計画を練りました。当時日本人が夢を求めて渡っていた満州。日本側の港である福井県敦賀にはまだ綿屋がないことを知り、ここで一旗揚げようと考えたのです。昭和九年、十八歳の時でした。

 決行前夜、駄菓子を買ってきてすぐ下の弟と妹を呼んで三人で食べ、翌朝は両親がタンスにしまっていた当時で三百円という大金を持ち出して家出をしました。ところが、下関で泊まった木賃宿で、夜半に警官に起こされて職務質問を受け、翌朝かけつけた叔父に連れられて、家に帰る羽目になりました。それからは、ひたすら家業に精を出しましたが、依然、経営について父親との意見の一致を見ることはなく確執は深まる一方でした。

 根本的な改善をいくら私が進言しても聞き入れてもらえないのでは仕方ありません。今度は、自分でためた金で大阪へ武者修行に行こうと二度目の出奔(しゅっぽん)を試みました。これも結局は、父の説得で二か月ほどで終わりましたが、住み込みで働いた大阪の調味料職人から聞いた「たとえ小さく無名でも、本物を作りさえすれば一流の得意先を相手にできる、しっかりした技術と真心があれば一流の商売ができる」という言葉に商人の原点を学び、その後の企業経営の糧ともなりました。



<特殊紡績を経て脱脂綿の製造へ>
 復員後、三十歳の私の目に映ったのは極端に衣類が欠乏した厳しい敗戦国の現状でした。「せめて作業着、タオル一枚だけでも何とかしてあげられないものか」と考えた私は、家庭のくず綿から糸を作る特殊紡績と呼ばれる仕事に着手しました。新たな機械を導入するとともに亀王製綿所の看板を掲げて糸づくりに励みました。実質的な父からの独立です。やがて、できた糸で織る織布工場もスタートさせ、真夜中まで働いても追い付かないほどたくさんの仕事が舞い込みました。

 世の中が復興しだすと、国民はより上質の製品を求めるようになります。昭和二十八年の筑後川の大洪水で機械が台無しになったことなどもあり、翌年、隣町の吉井町に工場を移転。長年の夢だった脱脂綿の製造許可を得て昭和三十二年十月に、現在の龍宮の前身である、龍宮わたを設立しました。龍宮という名前には、平和な華やかさ、自然、健康、不老長寿というイメージが込められて、綿や脱脂綿の製造をとおして、地球に生きる人々の健康に役立ちたい私にはピッタリの言葉でした。

 問題はその脱脂綿をどう生かすかです。私が目を付けたのは紙おむつや生理ナプキンの表面に用いられている不織布の開発でした。汚れを広げず、不快感がなく、人間の体にもいいもの。試作品を発表するとたちまち龍宮ナプキンの名は九州に広がり、考案の不織布は販路を全国に、一部東南アジアまで輸出いたしました。

 しかし、父親同様、二度にわたる火災が、わが社に致命的な打撃となったのです。最初は昭和四十一年二月の打綿工場の火災です。このときは社員の団結で乗り越え、この年の売り上げは一億円以上と、前年と比べて五割以上伸び、まさに「災い転じて福と為(な)す」ことができたのですが、工場を全焼した四十九年の火災で絶体絶命のピンチを迎えました。

 それは、師走も押し迫った十二月二十九日でした。会社の敷地内にある自宅で、食事後くつろいでいた私は、けたたましい非常ベルの音で、反射的に立ち上がりました。新設の主力工場から火が上がっており、駆け付けたときにはすでに手が施せない状況で、焼け落ちた工場を茫然(ぼうぜん)とみつめるばかりでした。さっそく、機械の手配に大阪まで走りましたが、運悪くオイルショックの影響で設備の価格は二倍以上。しかし事業を続けるためには止むを得ません。無理して大量の機械を買い付け、二か月後には操業を再開、売り上げも伸びたのですが、そこにとんでもない落とし穴が待ち受けていました。



<倒産の危機と新たなスタート>
 火災保険だけでは到底支払いは困難とわかっていましたので、こんなこともあるのでは、と加入していた一億五千万円の利益保険を請求して、火災による損害補償を期待したところ、「火事から二、三か月は以前にも増して売り上げが伸びている」との理由で支払いを拒まれてしまいました。私にとっては耳を疑いたくなるような内容です。一日も早く事業を軌道に乗せ、お得意様に迷惑を掛けまいという思いがあだとなったのだ、と複雑な思いでした。

 夜間操業までして増産を図ったものの、資金繰りはますます苦しく、自転車操業のような状態に陥り、とうとう創業以来初めて給料の遅配を招いてしまいました。さらに、長年取り引きをしてきた熊本の布団屋が倒産し、六百万円の焦げ付きが出ました。

 手形の決済が差し迫ったある日、私は三十社ほどの債権者を集め、すべてをありのままに説明することにしました。すると、「会社の在庫品には手を付けない」という条件だけで、「決済までに、それぞれの会社でお金を振り込んで手形を引き・取ろう」と申し合わせてもらえたのです。それまで不義理をしたことは一度もありませんでしたし、取引先からは「あいつにはうそがない」と信用を得ていたこともあったのでしょう。私にとっては涙が出るほどうれしい結論でした。

 しかし、その晩、抜け駆けで品物を引き取ろうとした問屋さんがいて、その場は納得して帰っていただいたのですが、翌日、この問屋さんからの送金がありませんでした。私への仕返しだったのかもしれません。債権者からは 「たった一件の手形なら、あなたの方でなんとか落としては」との温かい声もかけていただきましたが、一人だけ約束を守らなかった人の分を私が払うことは、他の債権者の方たちを裏切ることになります。さらには、万が一、次の手形の期日の時、また払わないという人がいれば、払わないもの勝ちになってしまいます。いま、何より大切なのは皆さんの親切にこたえること。そう考えた私は、涙をのんであえて不渡りを出すことにしました。このとき私は六十一歳でした。

 再建策を練るに当たり考えたのは、まずは業容の転換でした。私が他社に先駆けて開発していた不織布やナプキン、紙おむつなどの分野は、すでに大手の進出が著しく、撤退を決め、本来の衛生材料と、わた、寝具を主力にしようと考えました。不織布のときもそうでしたが、私は、まだ世に出ていないもの、よそにできないもの、少しでも人の役に立つ商品を開発したい、という思いにかられると寝ても覚めてもそのことばかりを考え続けました。



<新製品の開発と持病の克服>
 いろんな商品開発に取り組みながら昭和六十年代に入り、新たに挑戦したのがダニと畳の研究でした。四六時中資金繰りと新製品開発のことだけを考えていたことも悪化の一因だったのでしょうか、その頃私は、ひどいアトピー性皮膚炎に悩んでいました。高温多湿な日本では、通気性のない床下にカビやダニが発生し、アトピーが多くなるのも当然です。脱脂綿や硬綿を使い、いまの家屋構造の中でできるかぎり人間の体にいいものを、と研究に没頭した結果、現在の「龍宮畳」が生まれました。これはベニヤ板に多数の穴を開け、その両面に硬綿を圧着して作った畳床で、全国的に広く評判を呼びました。

 平成四年、七十六歳になった私は社長を退いて会長職につき、新製品の開発に全力投球することにしました。十三歳の時、叔父から脱脂綿の素晴らしさを聞かされて以来、ずっと抱き続けてきた「脱脂綿で寝具を」という夢を果たすのがいま、という気がしたからです。食品同様、衣類や寝具についても、生地を加工したり仕上げる段階で、多くの薬品が使われます。そんな中で絶対に無害で、寝具に応用できるものといったら、医療用の脱脂綿とガーゼです。これらを使った寝具の開発はできないものだろうか。私の新たな挑戦が始まりました。

 ところで、当時の私は、医者もあきれるほどの病気持ちでした。アトピーのほかにも、腎臓病に脂肪肝、肝硬変、白内障、腰痛、神経痛、慢性胃炎、痔など二十を超える病気を抱え込み、おまけに医者からがんの疑いもあるから入院せよ、といわれる始末。そんな折、出会ったのが西勝造先生の「西式健康法」と、丸山淳士博士が提唱された「脱パンツ健康法」でした。そこでは医者だけに頼ることなく本来持っている自然治癒力を高めて自分自身で健康を取り戻すことが説かれていて、これらの健康法はその後、私自身の健康回復や製品開発に大いに参考になったのです。

 のちに福岡県発明協会から特賞をいただいた新しい寝具「パシーマ」はこれらを参考に、実験を重ねる中で生まれました。中綿に脱脂綿、肌に触れる部分にはガーゼを使っていて、裸でくるまれば、ポカポカと温かく、赤ちゃんに戻ったような気持ちでよく眠れるのです。さらに、西式健康法で眠る時に用いられる「平床」や「硬枕」にヒントを得た「龍宮式寝台」、「龍宮枕」の開発にも成功しました。実験台はまず私自身です。そして、驚くべきことに、長年苦しめられたアトピーや肩凝り、腰痛などの病気が、まるでうそのように良くなってしまったのです。

 綿に人間の病気を癒(いや)す作用があるのは綿一筋八十年の私の確信です。ただ、学会で正式に発表されていないために、自然治癒力や免疫力が高まる、という言葉でしか表現することはできないのですが……。



<綿は、神様からの最高のプレゼント>
『清貧の思想』を読んで以来、ひそかに私淑する作家・中野孝次先生に、私が開発した「パシーマ」などをお送りしたところ「ふしぎな布地」と評され、「この寝具は何よりもその快さに惹(ひ)かれてすぐに用い、たちまちそのよさを確信した」、「そんな落ち着かぬ世の中に一つでもこういう本質だけを追求した、変わらぬ品物があるということは、日本の物づくりにもまだ本物があることを証明してうれしいことだ」などと雑誌で高く紹介していただいたことは、私の何よりの励みとなりました。中野先生の言われる清貧と、私の物づくりが本物志向という点で一致するという考えに、中野先生も共感して下さったのです。

 その他、"パンツ脱いで寝よう"の北海道札幌の丸山淳士先生、「パシーマ」を研究して優れた性能を確かめて下さった井上昌夫先生、「梯君の文言に一言半句ウソはない」と賞賛していただいた生井武文先生など数多い学者先生方に援(たす)けられてきました。

 先日は福岡で学会のついでがあったとしてわざわざ来社していただいた奈良女子大学の登倉先生は、「もめんが免疫力を増進させることは確認している。自信をもって進みなさい」とご声援を頂き、今後パシーマについて研究を進めると有り難い言葉も頂きました。

「私の健康、私がまもろう!」から「私の健康、私が作ろう!」へと自然に、生活態度も心の持ち方で積極的になり、一方、不思議なくらい心のやすらぎ、幸福感に満たされることに気付きました。精製されたもめんの本物寝具が、その感触、性能を発揮して快眠を与えるとき、心身共に快癒健康と心のやすらぎを実現できる私の体験が、学理的にも証明できることが私の最後の希(のぞ)みです。

 最初に述べたとおり、綿は神様から人間への最高の贈り物である、というのが八十年を経たいまの実感です。他の植物が動物の餌(えさ)や巣の材料として利用される中にあって綿花だけは、人間の知恵で糸にされ、織物にされ、その数が増えるほど地球環境も浄化され、人々も健康になるのです。綿と本物の健康とのかかわりを探求しながら歩んできた私ですが、今後の人生も綿とともに歩み、環境の世紀とも言われる二十一世紀に綿をどう生かしたらいいか、楽しい夢を追い続けたいと思います。

※現在は廃番商品になっています。
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